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美がまえにある
美がうしろにある
美が上を舞う
美が下を舞う
私はそれにかこまれている
私はそれにひたされている
若い日の私はそれを知る
そして老いた日に
しずかに私は歩くだろう
このうつくしい道のゆくまま
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20代前半頃のことでした。アメリカ先住民、ネイティブ・インディアンの世界観に深く惹かれたものです。いくつかの本を読み漁りながら、今の自分がいるこの地球という星の大地に居ることについて、思いを巡らせたものです。
その頃は、毎朝5時に目を覚ましては、原付にまたがって、近くの小川のところへと行き、アコギを爪弾きながら、なにかを歌ったり、空を見上げることが、日課でした。
ある朝のことです。太陽が、向こうの方角から昇ってくる。そこで太陽の光に照らされながら、私は直観したものでした。
この世界にある、あらゆる回転するものが視界いっぱいにVISIONとして顕われた。
風車、車のタイヤ、この地球、太陽系の星々、その他、ありとあらゆる回るものを見つめながら、私はこの星には、帰無する過去、過ぎ去った過去というものはある意味では存在しないのだ、と、確かに観たものでした。
真木悠介さんの『時間の比較社会学』では、ネイティブ・アメリカンの時間論も紹介されています。言語と思考と現実の関係を考えた学者、ベンジャミン・ウォーフによる研究の成果を踏まえたりしながら真木さんは、あの本の中では、私たちが当たり前のものとしている時計的な時間、すなわち、直線的に過去から現在、未来へと進行する時間意識というものを、近代都市型の西欧的な時間意識の普遍化であり一般化であるとの分析を示されています。
中島智さんが語るところによれば、五大陸において汎世界的に存在する時間意識というものは、西欧都市型のそれではなく、円環する時間意識であるとのことです。ネイティブ・インディアンの本に出逢ってからというもの、先日書いた山尾三省さんの「文明の時」とは異なる時たちのありか、ありかたについて、ぼんやりとですが、自身の直覚をもとにして、思い巡らせてきたものです。
真木さんの書いたこの『気流の鳴る音』もまた、庭文庫がはじまってから私にとって最重要とも言えるかもしれない本としてここにあり続けています。
ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンの思想を分析しながら、その世界の展開を四つの領域に区分しつつ語り出される彼の観るドン・ファンの思想には、未だ私には汲み尽くすことのできていない深みというものがあると感じます。
先日ご紹介した見田宗介名義の『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』の中にも、この、ドン・ファンという人物と、その思想があらわれます。中でも特徴的なのは、ドン・ファンの言う「トナール」と「ナワール」との対比に基づく、「世界」と〈世界〉の関係です。
宮沢賢治とドン・ファンとに共通するひとつの重要なまなざしとは、この「世界」の自明性を突き崩しながら、未だ見知られぬことのない奇蹟としての、神秘としての存在、この〈世界〉に生きようとするところにある、その得意な〈眼〉であると、私には思えます。
ドン・ファンは言います。
「世界を止めろ」と。そして「見ろ」と。
見ることは、単にこの世界を見るということではない。真木さんは、レヴィ=ストロース、マルクス、フッサールの三者の「エポケー」を引き合いに出しながら、ドン・ファンの言う「世界を止めること」、すなわち、言語的に次々と解釈され形成される「世界」というもののその運動を外して、宙吊りにして、理解することのかなわないこの〈世界〉にまなざされるようにしての存在のありかたを語ったりなどする。
「トナール」は「世界」をつくる。それは、話すというしかたでだけ世界を作る。そうした言語的な世界認識の上において人間はこの世界のなかにみずからの世界観を打ち立てていきそこに安住しようとする。
けれども〈世界〉は、そうした「世界」の〈裂け目〉からたえずその人間をゆさぶりにかかってくる。
私の好きな漫画である『バガボンド』のなかで、刀研師の本阿弥光悦は、目をひらいて見るならば、この世にあるものは、美しくてもともと。というようなことを、ぽそりと語る。
私もまた、そうなのだと思う。
はじめに引用したインディアンの詩句。
美はあらゆるのところにある。
そして、ドン・ファンは語る。
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──わしにとっては、心のある道を歩くことだけだ。どんな道にせよ、心のある道をな。そういう道をわしは旅する。その道のりのすべてを歩みつくすことだけが、ただひとつの価値のある証しなのだよ。その道を息もつがずに、目を見ひらいてわしは旅する。
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目的でも、結末を予期してでもなく、ただ、歩く。ただ、この生の、心ある道を歩むこと。
私もまた、価値というものに意味を付与するならば、そのようなところにこそあると思う。
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【清水雄也くんによる真木悠介紹介】
マルクスに何を見るか
僕が真木さんの著作を読んでいていつも感じることの一つは、この人は人間のことをもう一段抽象的な意味合いにおいて深く愛しているのだな、ということだ。そのことは彼のマルクス読解にもっともよく、かつ分かりやすい形で現れている。
マルクスと言えば、私的な所有制度を廃止し、みんなでさまざまなものごとを管理することで格差のない平等な社会をつくりましょうと主張した、ということくらいは学校で習っているのではないかと思う。そしてまた、そのような社会のあり方=共産主義は、現実にはソ連や中国などの平等からはほど遠い社会として体現されているということも、知っている方が多いかもしれない。
今から30年ほど前までは、マルクスといえば研究の世界では必読書になっており、ちょっとした教養のある人は皆『資本論』を読んでいた。それくらい社会に影響を及ぼしている書物だった。
ただ実際のところ『資本論』をはじめマルクスの著作は非常に難解で、今ではほとんどの人が授業や誰かの解釈によって間接的に知っているだけで、一般的には「難しいことを書く過激な人」くらいのイメージになってしまっているような気がする。
真木さんの著作は、そんなマルクスへの固いイメージを柔らかく取り払ってくれる。少し長くなるが、印象に残っているマルクスと彼の言葉を紹介したい。
私的な所有の止揚ということは、人間が世界を人間のために、人間によって感性的にみずからのものとして獲得するということであるが、このことはたんに直接的な、一面的な享受という意味でだけとらえられてはならない。すなわち、たんに占有するという意味、所有するという意味でだけとらえられてはならない。人間は彼の全体的な本質を、全面的な仕方で、したがって一個の全体的人間としてみずからのものとする。世界にたいする人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛する、こと、要するに人間の個性のすべての諸器官は、対象的世界の獲得なのである。
私的な所有はわれわれをひどく愚かにし、一面的にしてしまったので、われわれが対象を所有するときにはじめて、対象はわれわれのものであるというふうになっている。
コミューン主義、すなわち私的な所有の止揚とは、すべての人間的な感覚や特性の解放である。
(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』岩波書店、1964年、136-137頁 上記訳は『気流の鳴る音』213頁、真木悠介訳から引用)
マルクスの主要著作のひとつである『経済学・哲学草稿』から真木さんは以上のような言葉を引いて、次のように述べている。
われわれと他の人間や自然との関係において、根底的に価値があるのは、われわれがそれらを所有し、支配することではなくて、それらの人びとや自然とのかかわりのなかで、どのようにみずみずしい感動とゆたかな充足を体験しうるかということである。
マルクスが現にあるような労働を、人間の生産的な活動の本来の姿ではなく、疎外された労働としてとらえかえそうとしたのは、活動がそれ自体として生きるのとであることをやめ、所有することのたんなる手段にまでおとしめられる構造をそこにみたからである。そしてまさしくこのような労働の疎外された構造のうちに、「私的な所有」の関係の核心を彼は見出していた。
このような生の手段化という地平が止揚されることなく、したがってそれが、人間的な感覚と特性の全面的な解放として明確に把握され実現されていないとき、コミューンのこころみはつねに、あらたな抑圧に転化する危険をはらむ。
(真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、214-216頁)
僕はこれらの文章を読んで、「ああ、マルクスってすごく人間味があるじゃん」とすとんと彼に対する親近感が湧くと同時に、「なんて熱い人なんだろう」と彼の著作を読んでみたい気持ちにさせられた。
真木さんが解釈する、何かを所有するための人間の活動の手段化や、マルクスの「人間的な感性や特性の解放」といった言葉は、まさに現代を生きる私たちの苦しみや違和感の本質を捉えているように僕は思う。
真木さんは人間を抑圧し、十全な生を送ることをできなくしている社会のあり方に真っ向から疑いの目を向けて、そのような社会の構造と人間の「生」の本質的な在り方について考え続けた人だった。そしてそこには彼の人間に対する深い愛があり、彼は自分と同じような強い気持ちをマルクスの中にも見出していたのではないか。
最後に、僕が大切にしている真木さんの言葉を記して紹介を終わります。またこれを読んでマルクスにも興味が湧いた方は『賃労働と資本』から手に取ってみることをお勧めします。彼の著作の中では資本主義の原理についてもっとも分かりやすく簡潔に学べるし、何よりすごく薄っぺらいです。僕もこれを最初に通読しました。
コミュニズムとは所有の否定ではなく、万人が全世界を所有することに他ならなかった。(真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、179頁)