
「自然保護」、「環境保護」、「持続可能な社会」という言葉。流行っていますが、「なんだか、腑に落ちないなあ」とか、「ピンとこないなあ」とか感じておられる方々もいるようですね。
そんな方々に、内山節さんのこの本など、おすすめします。
『内山節著作集15 増補 共同体の基礎理論』
2970円(税込)
農山漁村文化協会
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近代的な市民社会へのゆきづまり感が強まるなかで、前近代の象徴ではなく、未来への可能性として「共同体」が語られるようになってきた。群馬県上野村と東京との間を行き来して暮らす著者が、村の精神に寄り添うことをとおして、自然と人間との基層から新たな共同体論を構想する。
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哲学者である内山節さんの本の一冊。
高野先生の『自然の哲学』の参考文献としてもあがっています。
高野先生が「自然(じねん)」という言葉をはじめて聞いたのが、内山さんの講演だったそうですよ。
内山さんは、この本のなかで、「自然保護」から「持続可能な社会」への歴史的な変遷を追いつつ、そこにある問題をこう指摘しておられます。
「だがこうなればまた新しい問題がでてくる。そもそも世界をある秩序下におこうとすること自体が、かつては植民地やそれぞれの地域の破壊、文化の解体を生み、「帝国主義的世界支配」をつくりだしてしまったのではなかったか。それが極端なかたちで展開したのがファシズムだったが、世界を持続可能な秩序下におこうという発送自体にひそむ問題は存在しないのか。さらに持続可能とは何のことなのか。人間の文明の持続可能性なのか。自然の持続可能性なのか。」内山節 同書 第一章 現代社会と共同体より
人間という種を軸に、この世界を「持続可能なように管理しよう」とする秩序形成の欲望の底には、この世界を人間という種の管理下におこうというファシズム的な論理があるんじゃないかと、内山さんは指摘しておられます。
おそらく、「自然保護」や「持続可能な社会」という言葉に腑に落ちなさを感じておられる方々のなかには、内山さんの指摘なさっておられる点にまつわる、人間の側の傲慢さを感じておられる方がおられるのではないか、と、私は思います。
そうして内山さんは、いわゆる「前近代」と呼ばれる時代における、人間と自然との関係に目を向けることの重要性を語られます。
「自然をどうするか、環境をどうするかの前に、近代以降の自然と人間の関係のゆがみを問い直そうという発想である。…
このような問題意識をもつとき、自然と人間の関係をかつて支えていた共同体の役割が視野に入らざるをえなかった。
…
社会が近代化をめざし、人々が個人を基調にしてできた市民社会に未来の可能性を感じているときは、共同体は解体すべき対象であった。
この時代には共同体は封建的なもの、個人の自由を奪うものとみえた。
しかし個人の社会の問題点が意識され、現代における人間の存在に迷いが生じてくると、さらに自然と人間の関係を問いなおそうという問題意識が芽生えてくると、共同体をとらえる「まなざし」も変わってくる。」内山節
この章の終わりに、内山さんは、
「自然と人間が結びなおし、人間と人間が結びなおしていく。」
という言葉を書いておられる。
まずはそこからはじめていかなくてはならないのだろう。
それは具体的な行動もそうだし、
ひとりひとりの方々のなかでの
それぞれの自然や
人びととの関係を
解きほぐしたりすることから。
自ずから然り
という
「自然(じねん)」に生きるには。