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ドイツのベルリンと、日本のこの店でも、異なる時がある。時、というものは、それぞれに生きられる時として異なる。屋久島に生きた詩人の山尾三省さんの言葉を思い出す。
「森には、森の時というものがある。川には、川の時というものがある。そして海には、やはり海の時というものがある。
これらのゆったりとした時にくらべると、人間の時はいかにもあわただしい。ただあわただしいだけでなく、前へ前へと追われるように進むことだけにとらわれて、人はじつは帰る存在でもあることが見失われている。」山尾三省
前にもこの本のことを紹介した時に書いた気もするけれど、僕は20代半ば頃にかこの本を古本屋で見つけて、読みはじめてからというもの、この始まりの文に心を掴まれた。森の時。川の時。海の時。それぞれにある時。僕はあくせくと働かざるを得ない頃だったからなおさらこの言葉にうんと頷いた。僕の身体はおそらくはこの本を読む前からそういう時のことを知っていた。知っていたけれどもそれをうまく言語として認知することはできてはいなかったのかもしれないと、当時のことを振り返る。
僕は時間に押し流される自分の日々のことを見つめながら、こうではない、とは、思っていたと思う。ではどうするのがよいのかを僕は考え続けた。三省さんは屋久島に移住して暮らされた。僕は別に屋久島に移住する気持ちは、湧かなかった。
別の地にあることで感じられるものがある。それは体験の知である。頭でどうこうわかるというものではない。ある土地に生きられたものを生きてみなくてはわかりようのない事柄が、至る所にある。そういう意味では本を読む行為はその世界のわからない事柄に開かれ続けることでもある。それらを自己投影的にわかることは可能だが、僕の考える時というものと、三省さんの時もやはり違うだろう。言葉は抽象し、それを重ね合わせることができるとしてもである。
三省さんの言葉が、それでももう10年ほども僕のうちには根づいてあるのだ。それは他者の言葉だけれども、それは「植った言葉」であるけれども、同時にまた僕には僕の言葉がそこから生える。生える言葉というものはその意味では、植えられたものからのある変形を通しても生えるものなのだろう。この本は今も僕のなかに生えている。おすすめのエッセイです。