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FICTION/山下澄人

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2日だな。そう今日思った。今夜終わらせる。確かに、そう思って、今日は店から晩飯を食いにみなで出て、家につき珈琲を淹れて、貪るように読みだす。昨日から読んでいて頭と肩と腰がうっすらと痛むのは彼もこの本のなかに書いていたあの症状に似る、似るがまあすべての肉体がその構造や状態が同じなのではないのだから同じではないが、本を読むというのはそういうことでもある。それは端的にはその身体を演じることでもある。演じる時に、そうこの本のなかで山下さんは超という言葉などを使って書いていたその超もまた僕は彼の書いたのでそれとして読むのだから、同じ理解とはいかないというかそれは体験されたものとして違う、けれどもなにか近しいことは演劇や小説でなくても起きるし僕は歌や絵やでもやっぱりうたでそれをよく生きてきたから知っていた、それを思い出したりもした、それからゴロン。安瀬さん、こないだまで店で絵の展示をしてくれていた安瀬さんと出逢ったあのゴロンのことや、観てはいないけど気になるラボ、そうこういうことを連ねるとこれは本の宣伝というひとつの極へと向かう流れとなる、それがいけないわけでもないが収束する、収束するところにはそれとしてのかたちがうまれる、こうしたことを書きながら書くこの身体の流れがあたまのほうへとゆく、こうしたことはおもろいひともいればつまらないひともいるし、そこでは収束と発散以外にもさまざまな粘性のようなものもあるがまずはそれは、置いておこう。僕はこの本を読みながら頭痛がしたりおもろかったり吐きそうになったり暗くなったりあたまを使ったり思い出したりした、それから二回ほど布団に横たわり眩暈がして気がふれそうになり山下さんのことを想ったり、別に僕に想われてもきもいだけかもしれないけれどもそんなことはおかまいなしに僕は山下さんの書く運動とそこに流れるものやそれからさまざまな堆積と対峙した、それは昨日や前の日に僕がRIZINなどを観ていたりシャドーボクシングなんかを最近ひとりで家でするからかしらないが、あるひとつの戦いのようにも感じた、読むのは決闘でもあるし抱擁でもある。僕はこの本をおもしろいとかおもしろくないとかそういう言葉では語りたくないしそんなことはどうでもいい、おもしろいかおもしろくないかというか僕は凹んだり苦しんだり泣きそうになったり笑えそうになったり学んだり考えたり吐きそうになったり頭痛くてもう読むのやめようかと気持ちよくなったり高揚したり忙しい、それは忙しいと書くと心がないようだがそうではなくそういうその、なんともいいようのないところでいっしょに流れた。単純におもしろいと言えるものなど僕には今はどうでもいい。これはすごくちゃんと大事な流れがある。それだけでも僕はいい。 ⁡ 「だけどだとしてどうしてわたしたちは人間をよく見ないのだろう。嫌いなのだろうか。好きな人のことは好きだ。家族、という言葉は好きじゃないけど家族は好きだ。死んだら泣くし生きていたときのことを思い出して何度も泣く。もう一度会いたいという。だけどもし仮に再びあらわれたとしても、時間が経てば見なくなる。  わたしは母を比較的早くになくしたのでその声が思い出せない。姿も、微妙だ。写真を見れば、ああ、とはなるがしかしそれは写真を思い出しているだけのような気もする。母のしていたこと、口にしていたこと、様子、それらのほとんどを思い出せない。  もし人が人を見るようになればもしかしたらどの人も【超】その人となるのか。じっと見る。見られていることを信じる。そうするためにわたしたちはラボであれこれ雑談しながら試みていたのか。わたしたちが見ることを思い出すように、人間を見ているということを思い出すように。わたしたちが普段、見ていないことを、だから見られてなどいないのだということを再現するのではなくて、見られている、見ている、を新たに見つけ出すために。」p.88 ⁡ 人間なんてものは人間という言葉の範疇にしかいないのにでも人間は確かに人間であり、その人間であるものは確かにそれぞれに生きてやはり死に、死にとか書くな、でも死ぬ、死んでもなお、そしてまた人間や同様にわたしたちなどという主語も実は成り立たない、成り立たないけれどもおよそ人間というその範疇のなかで人間というものがどうしたってやる性質のこともあり、それがその人を超から遠ざけもし、けれどほんとうはもともとが超でありだから超は超というよりも元なのだと俺は思うそれが今もどこにでもいるそれがけれども見えづらくもなり人間などなんて思いもしでもそれからその母の死のことや死んだひとのことや猫や犬や別れたでも別れたのかそれはまだもうそこでなにかでなくなにかをするそうしたこれはいまも起動をし続ける、だからなんだ。人間は人間し続けでも動物し続けでも動物以前し続けそこに。ここにある。いる。いた。死んだ生きた。そしてなんだ。書く。「人間は「わたし」を助けるために、わたしたちは助けられるために生まれて来た。わたしたちには救われる権利がある。そのための習慣、それをわたしは芸術と考える。」p.156 だから救われた超は芸術はいらなくなる。救われるということがはたして絶対持続にあるかは別として。 ⁡ 百瀬雄太 ⁡ ✳︎ 作り話の世界で生きてきた。芥川賞受賞作『しんせかい』に連なる反自伝小説。 演劇する集まりを立ち上げ、「FICTION」と名付けた。人が入れ替わりながら、わたしは残り、十六年つづけ、小説も書くようになった。仲間のひとりは夭逝し、もうひとりは体が半分しか動かない身で小説を書こうとしている。二度の大病をしたわたしは回顧し始める。死と生、芸術を奔放なスタイルで思索する連作短篇集。 FICTION 01 象使い FICTION 02 楽園 FICTION 03 ラボ FICTION 04 変転する北極星 FICTION 05 サンパヤ テレケ FICTION 06 黄金の馬車 FICTION 07 助けになる習慣 山下澄人 1966年、神戸市生まれ。富良野塾二期生。劇団FICTIONを主宰。2012年『緑のさる』で野間文芸新人賞、2017年『しんせかい』で芥川賞を受賞。著書に『ギッちょん』『砂漠ダンス』『君たちはしかし再び来い』『おれに聞くの? 異端文学者による人生相談』など。

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