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【清水雄也くんによる片岡義男の紹介文】
片岡義男を知っていますか?
片岡さんの本に最初に出会ったときのことはあまり覚えていない。現在ハヤカワ書房から出ている一部の短編集成や近年の新刊を除き、彼の膨大な著作の多くが絶版か品切となっている。僕が持っているのはほとんどがそうした昔の文庫本たちだから、彼の本を手に取るのにはそれなりの理由があったはずだと今では推測するのだけれど。
ためしに今読書記録を遡ってみたら、最初に読んだのは『缶ビールのロマンス』、それからしばらく空いて『美人物語』と『ボビーをつかまえろ』だった。以来古本屋で見かける度に買っておいて、ふとしたおりに彼の描く世界に浸りたくなると未読の文庫本に手をのばすのが習慣になっている。今でも鮮やかな赤に染まった背表紙たちが棚にすっぽりと収まって、読まれるのを待ってくれている。
彼は基本的には短編作家だと個人的には思っている(もちろん長編も書いているけれど、短編の方が圧倒的に多い)。そして優れた短編小説作家の多くがそうであるように、片岡さんの小説群には「これはちょっと、、」というものがまずない。ほとんどの作品が一定以上の質を保っている。彼の作品が好きかどうかはもちろん人によるだろうが、作品の安定度に関しては多くの人が頷いてくれるのではないかと思う。片岡義男は最初から片岡義男として完成されていた。
風景描写はときどき読むのに詰まってしまうけれど、とにかく会話が上手い。普通会話表現の良し悪しは個性的な比喩や文脈のズラシから生まれくるのだが、この人はそうではない。むしろただの平凡な受け答えの中に話している人同士の空気感や間、風合いが醸し出される。登場人物が「うん」とか「そうだ」とか、何の捻りもない(とあえて言ってしまう)ことを口にしているだけなのに、なぜかそこに独特の余韻が残り、静かなクールさが出る。そういう人には僕はこの人以外に出会ったことがない。
それと彼の本には写真が何ページかおきに入っていることが多く、これがまた描かれている小説世界とぴたりと合っていて驚かされる。これほど文字以外の情報を効果的に用いている作家も少ないと思う。
だからこうして紹介する手前申し訳ないのだけれど、僕としてはどの本を読んだらいいですか?と聞かれると、少し答えに窮してしまう。正直に答えれば「全部」、もしくは「どれでもいいから見つけたら1冊」といういかにも適当そうな返事をすることになってしまいます(笑)。けれども、例えば皆さんがチェーホフを他人に薦めるときだって、だいたいが「新潮社から出ている短編集成か戯曲のどれかでいいんじゃない?」とお答えになるのではないだろうか。
そういう前提の上で、僕の頭の中に鮮明に残っている彼の物語の風景を二つ紹介したい(細かいところが違っていたらすみません)。まず思い出すのは、オートバイに乗った若い女の子が、旅の途中で立ち寄った古い民家で年老いた女性から水と梅干しをもらう話。
晴れ渡った気持ちのいい夏の日に、黒い髪を長く垂らした大人びた女の子は長い旅に出ている。山を抜ける途中の、交通量の少ない通りを走っていて水が飲みたくなり、たまたま道路沿いに民家を見つける。彼女はバイクを近くに止め、家の庭まで歩いて入っていく。おばあさんが出てきて、女の子は外についている水道から水をもらってもいいかと聞き、もちろんおばあさんは快諾する。そして梅干をたべていかない?と言って、自家製の梅干しを家の中から持ってくる。女の子はそれを受け取り、赤々とした酸っぱい梅干を夏の青空の下で噛みしめるように味わうのだ。彼女はおばあさんに丁寧にお礼の言葉を述べて、バイクを置いた場所へと戻り、再び新たな気持ちで旅へと出発する。
どうですか? 彼女が美味しそうに梅干を食べている光景がするすると頭に浮かんできませんか? 書いていたら僕まで涎が出てきた。どうでもいいことだけど、こういうおばあさんの作る梅干しというと、味がたっぷりと沁みたあのシソも同時に想像してしまうのは僕だけなのだろうか。
もう一つ印象に残っているのは、男が旅先で関係を結んだ女性とのあいだに子どもができる話。
二人の男が旅をしている(片岡さんの小説では多くの人が旅の途中だ)。それも相変わらずバイクで。二人は旅先の街で入ったスナックにいた女性と意気投合し、そこに1ヶ月ほど滞在して頻繁に会うようになった。もちろん彼女は両方の男と寝た。
彼らがその街を去ってからしばらく経った後、一枚の写真が二人のもとに送られてくる。そこでその女性がその後妊娠し、一人の子どもを生んでいることを知る。もちろん二人の男の内のどちらの方の子かも判明する。
普通の小説や今の時代状況であれば、こういった話は「男に人生を台無しにされた女」や「家父長的な性質の現れ」といった、ポリティカルで重たい主題として展開していくことが多いのだが、片岡さんが書くとまったくそういう方向には流れない。
孕ませた方の男はすぐさまその女性に会いに行って、即座に結婚を申し込む。そして、女性は即答でそれを断るのだ。
女性は夫は要らないが子どもは欲しかったのだと言い、男はそれでも引き下がらず「結婚しよう」と率直に言い続ける。やがて男の方が折れ、定期的に女性に会いに行くことを約束して二人は別れる。
もちろん女性が強がってそのように主張したのかもしれない。男の方もとりあえず責任をとらなければと覚悟もないのに口に出しただけかもしれない。けれども彼の小説を読んでいると、その可能性は限りなくゼロに近いように思われてくる。というのも、女は兼ねてよりそのような意志をもって人生を過ごし、男は何かあれば他のことを投げ出してでも責任をまっとうする決断を即座に下すような、そういう種類の人間たちとして描かれているからだ。そこにはどちらかがどちらかを虐げるような不平等さはほとんど感じられない。
この話に限らず、片岡さんの小説ではさまざまな状況で一夜を共にする男女の描写がよくある。そしてそのとき両者は、どちらもはっきりとした自分の意志を持っていて、それぞれが自らの意志で物事を強く前に押し出していく。そうした彼らの姿は見ていてとても清々しくて気持ちがいい。
もう少し抽象的に言えば、ただ素敵な人と出会ったから、素敵なときをその人と過ごしたいと思った。そしてお互いにそのような感情を持っているので、素晴らしい時間を共にすることができた。それだけ(That’s all)。というような、からっとした歯切れのよさと前向きさがある。
だから僕個人的には、ということだけれど、その関係性に不倫やスワッピング、妊娠といった、世間一般的には非常にセンシティブな話題が扱われていたとしても、読後感は思いのほかすっきりとしている。むしろ僕も彼らみたいにかっこよく生きなきゃなと気持ちを改めることだってある。
一度長野県の松本で入った古書店で片岡さんの本を買ったときに、店主から「片岡さんがお好きなのですか?」と聞かれたことがある。そこで店主が「彼の小説を読んでいると当時の光景を思い出します。昔は本当にああいう感じでした」とぽろりと呟いたのを覚えている。
彼の小説にはよく出てくる物や風景がある。まずはバイク、それから車。乗り物はまずこの二つ。僕はどちらにもあまり詳しくないから読んでいてもよく分からない。とにかく気持ちよさそうだなという雰囲気だけが伝わってくる。
それらに乗って通り抜ける山道や高速道路、道中に降りてかける公衆電話、滞在する街のホテルや小さなスナック。そしてしばしば目的地になる湖や海。こうした情景のあれこれがとても懐かしいというのは、少し羨ましい。僕は読んでいてただ素敵だなあとわくわくするだけなのだから。
そういえば店主は「まだまだ彼の本をもっているので、また出しておきますね」と言っていた。また松本に行きたいなと思う。素敵な人と車に乗って。相手が素敵な人ならば、大雨も晴天も、どんな天気も素敵な光景になるはずだ。
✳︎
彼女たちが登場する、
物語が美しく始まる。
物語とは生き方。
論理の道筋くっきりと、
孤独さが、良き人とのつながりが、
心にしみて勇気となる。
女性たちばかり
10人の主人公によって支えられた、
7編の書き下ろし短編小説集。
[目次]
アイス・キャンディに西瓜そしてココア
追憶の紙焼き
髪はいつもうしろに束ねる
万能のティー・スプーン
鯛焼きの孤独
赤いスカートの一昨日
木曜日を左に曲がる
あとがき
片岡義男
1940年東京生まれ。早稲田大学在学中にコラムの執筆や翻訳をはじめる。
74年「白い波の荒野へ」で小説家としてデビュー。翌年発表した「スローなブギにしてくれ」で野生時代新人賞受賞。
小説、評論、エッセイ、翻訳などの作家活動のほかに写真家としても活躍し、
「階段を駆け上がる」「ここは東京」ほか、数多くの著作がある。