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庭文庫のみきが、「いま」について考えた短い文章が20遍掲載されています。
A5変形版
最初の文章だけ、掲載します。
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「何かをもっとよく知るためには、一度何かから遠く離れてみる必要があるようだ」片山令子『惑星』(港の人)
いま 中田 実希
目次
seize the day. 6
輝かしい未来? 8
18から子どもを産みたいとおもっていた 10
抱きしめる、背中から 12
目の前の灯火だけが明るい 14
まわる世界の切れ端と 18
イシキ浜はどこでも 20
死なないでほしい 23
いい珈琲 25
惑星 27
真っ白なシーツ 28
2024/02/21 32
アスカを胸に 36
かわいいってなんだっけ 41
26の呪い 45
しあわせってなんだっけ 48
魂をかける 52
星 54
かわいい人 56
人の中で鳴る音 58
seize the day.
真夏、クーラーの効いたサテライト室で代ゼミの授業を受けている。高三の夏に彼氏に振られてから底が抜けるように勉強をしなくなり、当然大学には落ちた。わたし以上に親をがっかりさせてしまった。自習と参考書、あとはすこしの授業さえあれば必ず合格できると信じていたから、自習室を主な目的にして代ゼミサテライト予備校に通うことにした。自宅から約5km、モノレールに乗れば大体15分だけれど、ほとんど自転車で通った。330を抜け、奥武山公園を走り、たまに大きな船が停まっている港を横目に58に入る。国際通りの脇道に、予備校はあった。
授業なんてついでのつもりだったけれど、わたしは代ゼミの名物講師たちが随分好きになった。破天荒な生き方しかできなかった彼らの、落ち着いた先。多くの代ゼミ生がそうであるように、授業そのものよりも、合間の雑談や冊子の間に挟まれる小話を愛した。その講師は、一年の終わり際、ずいぶんと長い雑談をした。
「過去と、未来に挟まれて、今を見失うな。統計の中に自分を閉じ込めるな、seize the day, 今を生きろよ」
そう述べた彼は輝くほどかっこよかった。(大学生になって彼にあって彼にすこしがっかりしたのは、また別の話)。seize the day, それはわたしにとって掴みたい最大のものだった。
いつか、未来のためではなく、今のために走れる日が来るんだろうと信じた。それが、いつなのかは、わからなかったけれど。
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・著者:中田実希(庭文庫)
・表紙写真:百瀬雄太
・発行日:
第一刷 2024年2月27日
第二刷 2024年5月30日
第三刷 2025年3月20日
下記は一緒に庭文庫をやっている百瀬雄太の感想。
*
夜が来た。そう思った。この本を読み終えた僕の身体は今星空の下のハンモックに揺られている。ハンモックが揺れると微かな音がぎしぎしする。周りには誰もいない、いや見える、むぎが見え、そして本を読む少女が目に映る。あれはおそらくいや間違いなく昔のみきてぃだろう。
みきてぃが本を貪り読む姿を僕は今、はじめて見た。と書いたら今は26歳くらいのみきてぃが笑いながらこちらを見て、その歯茎のピンクと歯の山々が僕の目の前には、見える。
いま。いまについて書いたのだとみきてぃは言った。ももちゃんも読んでよと言われていたそれを、今家におらず京都での友達の結婚式のために家を空けているみきてぃの知らないところでひとり読んだ。
悲しみに身を浸しながら、薄青い透明な光、黄色も混ざったその遠い未来を見つめる今にいた彼女の時々を、通過しながら、今現在の僕は36でみきてぃは33の、この今にまで至り。
僕は近頃というかいつからか考えている。僕があまり死ななくなったというか死をどうしても欲望してしまう、今にもふと死んでしまいそうになる僕から、生きていることが楽しく、喜ばしく、生きてあるこのうちの光のさなかに躍り出ることができたのは、間違いなく、みきてぃと共に生き暮らしてきた、その年月のなかでの、みきてぃの身体への一種の変形を遂げた今、その僕の身体の変容が、この光ある今を作りあげてきたのだ。僕は闇の世界に生きてきた、そう書くとやはり、嘘にはなる。僕は言うなれば闇のほうをよく見つめていただけなのだ。もとからこの地上にはこの光があり、みきてぃはその似た光を見つめて生きてきた、僕にはそれがいつからかというか、光ある姿かたちのこの世界というものが見えなくなっていた。そういうことなのだと思うと書いてやはりまだ書ききれない。
光と闇という言葉では、峻別されることのない、言葉では分けることのできない世界。
しかしながら僕は少しだけみきてぃに変わっていくなかで、死ぬことが怖くなったところがあった、今はまた変わっているし、変わり続ける今の連続、そしてそのいずれの時もがこの身体にはいる、だからそれをまるっと書くこともできないけれど、でも思うのは、今を生きる、いまにある、ということには、死と呼ばれるものも含まれるというか、半分はそれだということなのだと僕は思っている。
名づけようもないそれの渦中にはたぶんだけれも、生きているということと死んでいるということが、等価にあり、共にある。ただ生きているというだけのこともただ死んでいるだけということも、生命体であるということのうちにはない、仮初の、言葉なのだ。僕はそう思っている。
死にたいという気持ちは実はごく自然なことなのかもしれないということも長らくというか、この、あまり死にたくはなくなったというか、生きているのが好きな身体で翻って考える日々である。それこそこの本のはじめに引かれた片山令子さんの文章、「何かをよく知るためには、一度何かから遠く離れてみる必要があるようだ」と共に、これを引きながら僕のなかにはかつての僕が心を惹かれた飴屋法水さんの『ブルーシート』という本のはじめのところにある、離人症という言葉が希望と感じられるという旨のところの話のことを、僕の身体は思い出す。
いろんな僕たちが、いる。そのどれもがいる、いて、それぞれの時がいまもある。いまのなかにはたくさんの今たちがいる。それらはすべての瞬間なのだと思う。そしてそのすべての瞬間のさなかには記憶もあり、そのなかにはすべてがいるし、そうして写し合う互いもいる。みんなが写し合っている。僕がみきてぃの姿を写真に収める時、この本の表紙のみきてぃを撮る、ここにもみんなが写し合う。
僕は生きられるようになって死ぬのが下手になった。死んでいるということがうまくできなくなったというか、死の欲動をどこか抑圧するようになっていた、そのことにこの頃というのかいつからか気づき、僕はこの生きていることのうちにある光の世界から再び闇のうつくしさを、この身体をそちらへと溶解させる練習も今は少しする。夜は実は、優しいのだ。それは包み込む今である。光もまたうつくしいのだ。夜もまたうつくしい。朝も昼も。実はどんな時にだっていられるのに僕らはどこかに偏る。
その偏りさえもうつくしく愛おしいものであると、思えたなら。
(百瀬雄太)