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トケイソウの街/寺光真央

2,750円

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この写真集を眺める時、僕の生きるこの時空間における流れる時間が、止まる。『トケイソウの街』という名前を冠するこの写真集は、福岡生まれの20代前半の方、寺光真央さんにより制作された、私家版のものだ。ある時、寺光さんから庭文庫のメールアドレス宛にメールが届き、僕は寺光さんの送ってくださったこの本の紙面データ資料を何度か観て、入荷を決めました。 ⁡ トケイソウの街 寺光真央 白微書店 2500円+税 ⁡ 寺光さんが僕に送ってくださったメールの文面には、「私写真」の言葉があった。「私写真」は「私小説」から作られた写真界の言葉であり概念だったと記憶している。前にうちで展示をしてくれたナカモトショウヘイさんの好きな写真家のひとりアラーキーこと荒木経惟さんが、「私小説」という言葉をよく使った。私的なもの。 ⁡ この写真集を観ているとそうした言葉が使われた意味が僕なりにだけれどよく感じられる。なにものでもなくその存在として歩き、幼年の記憶の断片があるとされるその街のなかではたと静かに出逢ってしまい、そこに静かに立ち、その心を捉え、無時間の位相から立ち昇るものと共に現世でシャッターをぽちと押す。対象は様々だが、もとよりそこになにかを燻らせるのは対象以前でもあるのだから、何を撮るのかというコンセプトなどは必要がない。とてもパーソナルに、歩き、出逢い、シャッターを押した。そのなんでもなさがよく響く。なんでもよいのではない。出逢うというのはそういうことではない。非時間と時間の現在性が確かにその事物において結ばれ結実する事物の時間というのは、たとえば作者においてもすべてが認知できなくても、その確かさは、確かななのだ。 ⁡ トケイソウという言葉があえてそこに選ばれたのは、時計とのイマージュの結び目なのではないのかと僕のなかでは直観されるが、真相は知らない。ただトケイは確かに動くとしても、そして、その街を歩く時すべての現在時刻が確かに数字としては歩を進めるにしても、どこにおいてでさえも人間は時間の裏側にも降り立つこともできる。そこは無、ないしは非時間の領野であり、記憶の草花は、その領野から生えくるものである。時間を止めて、時の記憶のなかで歩き、シャッターを押す。その静かなたったひとりだけの時空での、白い恍惚が、僕の身に沁みる。 ⁡ web shopにも、載せますね。よかったら。 ⁡ 百瀬雄太

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