

















生まれておいで 生きておいで
地上には光がある
光を見ている人がいる
ずうっと昔から続いている光だ
水の中からやってきて
狂おしく泣く人間の子どもらは
嬉しくって泣くのかどうなのか
悲しくって泣くのかどうなのかが
わからぬ
でもきっと
嬉しくて泣くのも
悲しくて泣くのも
みなもとは同じなのだ
湧きいづるすべてあまりあるものらがやってくる
そこに ここにも
小さな礫となり泣く
怒りがあり悲しみがあり寂しさや嫌悪がありながらも人は笑う
笑うなかに咲く
咲う
人間のもつ命の痛みを
それでもなお美することを
それでもなお祝祭の最中において産まれる生を抱きしめるようにして愛すること
水の中に水がそのまま在るような生命のみなもとを
そうっと壊さぬように抱きしめる
人はいつでもそうやって
愛してきた
希望という名の光のありかたを見つめた
内藤礼さんの本をもう1冊新入荷しました。同じくHeHeから。
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『内藤礼 わたしは生きた』
3080円税込
東京のまちを中心に、2021年に開催された「東京ビエンナーレ 2020/2021」。
総合ディレクター・小池一子から出た言葉「東京に祈る」に呼応するように、内藤礼の作品「わたしは生きた」は制作されました。
1945年3月10日、東京大空襲により10万人を超える死者を出した東京都心東部エリアで、内藤は今なお残る戦争の記憶や痕跡をたどり、蔵前にある長応院境内のギャラリー・空蓮房に小さな人型の彫刻「ひと」を置き、墓地の慰霊碑に水を捧げました。また戦火の中、子供たちが避難し、現在も現役の小学校内にある地下防空壕にも「ひと」を配することで、周辺地域の持つ戦時の記憶を浮かび上がらせ、過去の鎮魂と未来へと捧げる、祈りの空間をつくりだしました。
暗闇の中、光のある方に身体をむける「ひと」。2011年に初めて制作された「ひと」は、わたしとあなた、生と死、内と外、過去と現在、そこにあるすべてを内包しながら静かに佇む者。「ひと」の前で人は、さまざまなことを思い、またさまざまな感情が喚起されることでしょう。
本書は、どのようなことがあっても、人は亡くなるその瞬間まで生きたのだ、と信じ「わたしは生きた」と題された本作を、畠山直哉の写真と小池一子のテキストにより書籍化したものです。
当時、会場は完全予約制、一部非公開であったため、作品の全貌が明らかになるのは初めてとなります。
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昨日のものと共に眺める時に僕のなかにふわりと〈死する生〉という言の葉が浮かびます。死に近しかった場所から地上へ。地上の生へと巨きなものに包まれるとともにごく小さなたまをも見つめた人。その人が今度はその地上の生からの回帰というか往復としての地上からの死する生を見つめるように反転するそのうつしをふと感じ入ります。死は生の終わりなのでなく死という生がこの世にはあります。
ももせ