




























シンプルに、非常に怖かったと同時に生きものじみたこの漂流物でのブリコラージュされある形をなし撮られたものと撮る方への愛おしみと苦しみとおかしみすらも感じた。そのおかしみとはいうなればこの破壊的で回帰的で渾融混合的で自己/他己破壊破滅的なる欲動が僕のなかにも確かに深く実感的にあるがゆえの共鳴による、一種のおかしみだ。った。
この写真集を眺めながら遠くにあるかつて僕のなかに沸いた情念形態の想像を想起する。それはこういうことを書くとキモがられることもあるだろうが、でもこの写真集を紹介するうえで適切な、適切な?、というのかわからぬが、この写真集を見つめながら僕はかつて絵を描きつつ、自分自身の肉体が肉塊にまでちらばりばらばらとなり、そのばらばらにちらばった肉が美しい女のばらばらにちらばったものとばらばらにないまぜになる夢想をし、おそろしい映像を観たものだなぁとも思いつつ、そういう肉体的で肉破壊的で、その意味では死的であり、そしてその解体され結び合うさまが、まさにこの写真集におけるばらばらな漂流物たちの再構築、新たな形へのさまざまな結びつき、ブリコラージュされた形態と、その形態が示す徴候としての殺害・殺戮や死、自死から他殺にまで至る様々なるバリエーションの死の様態、そうした形をそこにゴミたちを経由して作り出す仕草、反応…僕は自分自身の深くにある欲動をこの写真集の一枚一枚の作品に深く揺さぶられ、ある種の快楽と驚きすらも感じながら最後までさきほど観た。いやぁ。すごい。宮崎に暮らす内倉さんの写真集。そんじょそこらのホラー映画よりも、僕には怖く、そして、まざまざと戦慄し、人間の秘めもつ欲望の強さと、そこから産まれくる作品という形ある歪さ、その美しさにたじろぎ惹かれた。素晴らしい作品集です。ほんとうに。赤々舎さんより。
いうなれば僕は〈死骸に成るSEX〉というものが、あるのだとも思う。この写真集を開いた瞬間にはじめの一枚に観たのはまさに〈死骸〉だった。"死骸だからこそ生々しくそこに実存する生がある"といえるのだ。エロスは生命のまさに今を生きるものにのみ許された特別なる営みではないのだろうとこの写真集を観てあらたに思わされる。かつて人間と共にいたものたちが海に打ち捨てられ運ばれて残骸となり浜辺に打ち寄せそれと出逢い、なにかとなにかを結びつけ新たな形をそこに具象する人はに憎んでもいるしさびしくも思うのだろう。円球のたまのなかに吸い込まれ、そこに母なるものを呼びながら。死骸であるわたし自身をそこに蘇生させ同時に死を具現するかのような果てしない生きものの作品集。ここにある恐怖をどのように観る。
百瀬雄太
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海辺に漂着し、打ち棄てられたものたちのラストポートレート
内倉真一郎の新作「忘却の海」は、地元 宮崎の海岸を丹念に歩き回り、そこに在るものをひとつひとつ手に取り、白い布の上に配置して撮影されました。
夥しい数のプラスティック、フィギュア、装飾品、おもちゃ、生きものの死骸......。
もともとの役目を終えながらも人間界での痕跡をとどめるオブジェクトたちは、時間と環境によって変容し、新たな存在感を放ちます。
布の上にそれらを繊細に組み合わせ、ひとときの舞台を作り上げる内倉の営みは、彼らの声なき声を聴くようでもあります。
忘れ去られたものたちとの対話を通して、社会を映し出し、万物が負う時間を描き出す「忘却の海」。
誰しもの足もとをその波が濡らしていることを、写真集は静かに湛えています。
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漂流物は美しく、毒と悲しみを抱いている。
彼は海を歩きながら錆びた蟹のような形の小さな椅子や、持ち主を失った眼鏡、時計、薄汚れた人形を見つけ、手にとり蒐集する。
砂浜でコラージュするかのように、白い布のようなものの上に彼に選ばれたものたちを供えて、一時だけ存在する彼のオブジェを創り、写真に写す行為を一人で繰り返しているのではないか。忘れ去られて無意味になってしまった漂流物たちの失った時間や、傷ついた身体が、彼の手にかかると、無垢で可憐なものに変貌する。
それが何かいとおしい
モノクロームの中の聖なるものたちは、待ち侘びたように、静かな眠りに入ることができるかもしれない。
被写体にやさしい眼差を向ける彼は、自分が漂流物になった時のことを想像することができる、繊細な感性をもっている人かもしれない。
─── 今道子(帯文より)
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「忘却の海」は主役だけでなく脇役の配置にまで意識をめぐらした演劇的な静物写真だ。有機物と無機物とがからみあい、人が捨てたもの、自然の中で用済みになったものが同居し小さな宇宙をつくりだしている。
正方形の画面に世界の断片が凝縮され、想像の中で細胞のように精緻な運動を始める。ものたちはすでに死んでいるか、最初から命がないが、写真になることで新たな命を与えられた。舞台の上に立つ役者のように写真の中での役割を振られ、作品世界の一部として歩み始めたのである。
─── タカザワケンジ(写真評論家)寄稿
「海辺のものたちが織りなす小さな宇宙」より抜粋