





























どうしようもなく吸い込まれてしまう。前々からこの写真集について、そう感じ、思ってきた。ここにあるものはいったいなんだろうと改めてページを開く。そうかとあらたに思う。母親がある。ここにはそう。僕が時々はうっすらとそれを生きられることもあるけどそれでもなお行きつかぬところにあたるところの流れ。るもの。そこにいる。大門さんの身体。生命。僕がそれを生ききれないのはおそらくは僕のなかでの母親との関係がゆえになのだ。それはわかる。ではどうするか。それはなかなかに難しいところだと思い成す。そういうところの、その当人が生きたいがなかなか生きられないものがそれぞれにある。その意味で今の僕にはやはりまだこの写真集は、特別である。その意味において愛が浮上してしまう。
僕も何度も海に還りもしたけど未だ海は僕から遠くにあたるところに、それこそ僕は浜辺からもうすこし山に寄ったところにある。海は時々は、見える。大門さんのようには、見えはしないだろう。けれど彼女もまた、浜にはいる。浜は海と陸との境目である。そこに織りなされる人々の暮らしと、魚や旗や人間を取り巻く巨きな海と空と雲と星空。巨きなものに陶酔的に包まれながらその円球のなかに深く息づくもの。浜。大門美奈。僕からは遠いもの、僕が欲しくなるものを彼女は、生きている。
百瀬雄太
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相模湾に面した湘南・茅ヶ崎の浜の風景とそこにつどう人々を、重厚なモノクロで撮る写真集。
長く受け継がれてきた漁場は、サーフィンをする人々でも賑わい、そこに暮らす人々も朝に夕に海を見にくる。
漁師の貌に刻まれた皺。サーファーたちが波を見つめる眼差し。子どもたちの遊び。
入り交じり、再び点在していく生の時間を、豊かな階調のなかに留める。
自身もこの地に暮らす大門は、人が社会的な名前から解き放たれる「浜」での日々の出会いを、ひとつひとつ真向かいながら写真に収めた。
浜で名前を持つ者は少ない。
度々顔を合わせて話をしていても名前を知らない。
私が「サミー」と呼ぶ漁師がいる。
年の離れた友人から「サミー・デイビス Jr. みたいでしょ」
と紹介されたので、それ以来彼はサミーである。
浜で過ごしていると、名前など無くても、
自分が何者であるのかも話す必要など無いように思えてくる。
4年前、茅ヶ崎の海辺近くに移り住んだ。
茅ヶ崎の海というと湘南の華やかなイメージが浮かぶかもしれないが、
私が住むのは黒い砂浜、荒っぽい相州弁の飛び交う漁村のようなところである。
海から受ける恩恵は大きい。
魚が新鮮だ、景色が良い、といったことだけでなく
海がそこにあるというだけで生活自体が変わるのだ。
朝、浜へ行く。 浜へ行くと必ず知っている誰かに会う。
会って二言三言、言葉を交わす。
「明日は波が良さそうだ」とか「週末に大会があるから見においで」とか。
浜に行けば、誰かがいる。
誰かと会う約束をしているわけではないが、
皆、浜に導かれるようにしてやってくる。
ここで暮らす人は、皆それぞれの「浜」を持つ。
幼い頃「またあとで」と手を振るだけで、またいつもの公園で会えたように
身体的に誰かと繋がっていることのできる場が浜なのだ。
この浜の日常を、残しておきたい。
記憶をただ積み上げるように、でもかけがえのない日常を撮ることが、
この浜や、浜で出会った人々へのほんの少しの恩返しだと思っている。(大門美奈)