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いつもだれかが見ている/大竹 昭子 クミ・ヒロイ&アネケ・ヒーマン 写真

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オランダはアムステルダムに在住のアーティスト・ユニット、アネケ・ヒーマン&クミ・ヒロイ(クミさんは岐阜県出身の方らしい)が写真を撮り大竹昭子さんに送り、その写真から着想された短篇小説を大竹さんが書くという行為を通じて、それらがまとめられた、写真と物語のデュエット本。僕がしほちゃんの写真から詩を紡いだはなしを投稿しそこからの流れでこの本のことを想起し投稿することに。おもろい試み。 ⁡ 大竹さんがあとがきに書いているところを敷衍しながら考えるのだけども、たとえば一枚の写真を"もとに"なにかの物語を紡ぎあげる場合にも、単にそこに写るイメージ、すなわち、写された事物や風景や人物、人物のしぐさなどを含めたその被写体の行為、行動、関係などから、直接的にそれを想像しながら物語などを紡ぐこともできるし、写真は写真として着想の種に留めて、そこから紡がれるものはその写真に写るものとはまるで異なるものを紡ぎあげることも人間にはできる。つまりはその写真を"もと"にしながらも、あるメディアにおいて表出・表現されたものを媒介として用いつつも、そこからどのように新たな生成活動をおこなうかには、さまざまな切り口ややりかたがありえる。僕の場合にはその写真が"語る"ものを胚胎しつつ、そこからすこしの想像、すなわち、そこには写ってはいないものをすこしだけ僕のうちで描きつつ、けれどもそれが完璧に写真から外れてしまうことを避けつつという塩梅での詩作が行われたと思う。と思うとあえて書くのは現に僕が僕の創作のすべてをわかったうえで制作行為が行われるわけではないので、たぶんそうだろうと認識できる範囲でそのようにと思うというところです。写真に含まれる情報、顕在化し表現されたものの情報だけでなくそれを成立させる潜在する情報源も含めれば、一枚の写真というものにはものすごい量の情報があり、そこからなんらかのしかたでどのようにかある情報を摂取することでこうした制作行為ができる。そしてその孕まれる情報もやはりその受け手により様々である。そうしたなかで僕はやはり写真と詩という異なるメディア間では完全なるメディア変換行為は不可能だと感じ、けれどなんらかの情報を胚胎することは可能なので、まずは写真に身を寄せ同期をし、〈写真する身体の呼吸に身を合わせる〉ことを通じて、写真が語るものと語ってはいないものをも合わせて写真から詩を導くことをします。そこでは変換としては不完全でありながらもけれども完全に別種の切り離された作品ではない、息、声、生の連続性に基づいた制作行為が、可能になります。そのような書き方をする僕と大竹さんとでは写真をもとに書くのでも書き方はまるで違うので、その点の差異もおもしろく、紹介させていただきました。 ⁡ 百瀬雄太

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