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Life Works/片岡俊

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庭の草花樹、植物群生のなかに共にある祖父と祖父の道具や生活の多々、それからその庭づくりの日々の記録と記憶。写真家は祖父とともに庭にいる。庭のさなかにおいて彼は植物エネルギーを体内に染み入らせるように写真を撮る。そこにある多数無数の命の形を、光を撮る。名もなき草花。名前以前に人類よりも先にある自然界の生命力。写真家はまなざしそしてまなざされる。そこに生きる身体が緑に貫かれる。 ⁡ 繰り返す盛衰。跋扈し勃興する。やがて枯れゆきまた新たに芽吹く。一時たりとも同じ姿形ではない庭のさなかにある人間は生成を見つめる。人間であることの外側へと降りる。狭く区切られた世界観。念。たとえそこが物理的には人類による建造物において四角く区切られた世界観念としての庭と呼ばれる人為的時空間なのだとしてもである、その有限な限られたスペースのさなかに宇宙はひとときにまとまり絡み合うようにして醸成されるだろう。人の手が入り新たな植生も加わりつつも庭の生命たちは、それぞれの命の突き動かされにおいて多数に形を変えつづける。写真を撮ることを片岡さんは堰き止めるという言葉で表現する。確かに写真はある時空間内部におけるある瞬間の世界を切り出し固定化するという意味合いでは生成を堰き止めるだろう。そうして堰き止められたほんのひとときの画像こそがそのありし日の記憶をここにまざまざと蘇らせる。蘇生される。日々。もうここにはないものたちのその時々の形がある。生成は止まらない。祖父は亡くなったそうだ。彼の庭はそれでも彼の生命の事象性質を超え、生き続ける。人間がいなくなりそれでも彼は、撮る。撮り続けるところにいつづけるものたち。かつてその別の男の人間がそこにいたその軌跡も含めた庭が、人為と自然という区分けを超え、すべてが自然として生成、生誕し続ける。庭。庭の写真集である。 ⁡ 庭文庫には庭の写真集もあるとよいなあと思い、赤々舎さんが出しておられたものを入荷しました。片岡俊『Life Works』。ここにあるLife Workには彼が写真を撮る行為や観る行為、亡くなった祖父が日々生きた庭づくりのLife Work、さらにはその庭で生きる多数の植物たちのLife Work、それらが複数形としてのsをタイトルの付与するのではないかなと思う。 ⁡ 生の仕事。人間の金銭発生的な労働性の仕事などよりも遥かに深く古い古層の思考としてあるLife Workがある。Life=生は、生きる。その単純明瞭な事柄がWorkである。それは労働という狭い意味合いを超えたその生がその生としてまさに地上に生きてあること自体としての仕事、事に支えるという意味での、仕事である。 ⁡ その仕事はなんらかの意味や価値以前にもう生える。それはなにかのために行われる以前に動いている。そしてその意味を超えた力動の時場に降り立つ時、世界はすべてが撮るに値する情報源である。なぜならばなにかを撮る意味や意義あるものを求めて思考し選択する行為そのものによりそこに意味や意義が人間的に生まれるだけであり、すなわちすべての意味とは非意味の諸層、この世のあまねくの事象のうちから人間的に切り出されたものにほかならない。その意味では意味というものもまた世界を堰き止めるシャッターであり写真のような停止形態の痕跡物に他ならない。意味以前に生きられる生の仕事のなかに人間的な意味を見出す人間の性(さが)。けれどその意味では意味のないものなどない。すべてが潜在的な意味を意義をもつ。 ⁡ 写真する身体が反応するならばこの世のすべてどのような事象や光景にも芸術がありうる。なにかを撮ろうとする以前にその時場に感応すればすべてはまあたらしい写真にほかならない。そこからなにかの写真にだけ価値をおくのもやはり、人間的な性(さが)ともいえるだろう。 ⁡ 百瀬雄太 ✳︎ 片岡俊は、「自然」と「人」の関わり合いに着目した写真作品を制作しています。初の写真集『Life Works』は2010年の作品制作の始まりから現在に至るまで、ひとつの庭を舞台に撮影したシリーズになります。 半世紀以上にわたりその庭で、野菜や植物を育て、草をむしり水を撒いてきた祖父の営み。しかしその年齢が80歳に差し掛かる頃、変化が訪れます。鬱蒼と育っては枯れるを繰り返す、自生する植物の存在 ──。自由に育つ植物と祖父の手の二つが交差した時間が、カラーフイルムによって丹念に焼き付けられています。 地面に落ちた種子の一粒から始まり、絶え間ない変化を生む植物の密集した循環の歳月。場所に関わる人の手の跡が混じり合い、やがて人がこの世から去った後も手製の枠は残り、葉擦れの音はやむことがありません。時がもたらす変容や堆積が、片岡の「見つめ」続ける態度によって克明に刻まれていきます。 どこか懐かしい緑のバインダーを思わせる装丁にくるまれた、植物と人との共生。庭から始まる宇宙。『Life Works』は、片岡の作家としての基点を告げる一冊でもあるでしょう。 ------------------------------------------------ "人が植物を求め営み共生すること。人が移り変わり場所が姿を変えること。それはこの場所に限らず幾多の場所で、数え切れないほどに存在しているのだと思える。繰り返され、めぐり流れるものに末路はないのか。庭という限りある空間を見つめることは、私たちが暮らすそのそばに連綿と続く、植物と人の重なりを知ることだった。緑に触れながら目を瞑るとき、その境界線が混ざり合う。溶け入るような命の住処に私はいる。" ── 片岡 俊『Life Works』あとがきより "まるでカオスと思いたくなるこの庭に庶民の工夫の痕跡がいっぱいに詰まっていることも、私は無視できない。(中略) 民は自分しか使える労力はなく、道具もできるだけありあわせのもので工夫して使う。再利用と誤利用のあいだの領域で、植物たちが気持ちよさそうに根を生やし、葉を茂らせている。 持ち主が亡くなっても庭は生き続ける。よそからタネが落ちてきて、新しい植物が古株の植物集団の仲間に入る。枯れた植物はつぎの世代の養分となる。庭に幾重にも残された祖父の痕跡もまた、写真家の糧となっている。" ── 藤原辰史(京都大学准教授)「民の庭」 本書寄稿より抜粋

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