{{detailCtrl.mainImageIndex + 1}}/21

SEX/徐美姫

残り1点

4,400円

送料についてはこちら

『SEX』は徐美姫(じょう・みき)の第一作目の写真集です。ロバート・フランクをして「wonderful」と感嘆させたこのシリーズは、波や水の動きを見つめたモノクロの作品21点から構成されています。それは徐の30年の生の流れそのものであり、セルフヌードともいえる生身の強さに満ちています。かつ、強大で変転しつづける対象を見つめ体感することで、自分でありながら自分を解き、波の向こう側の大きなものと向かい合う、深い抽象性をも獲得しています。 「SEX」、性、性交、生まれつき、さが、男女の別、物の性質。 それらすべての凶暴で繊細な響きを込めて、『SEX』は生まれました。男が男であること、女が女であること、人が人であること。そこに生じる否応のない距離とエロス、共に生きようという関係性こそが、徐が写真に見つけたものなのかもしれません。 『SEX』について 徐美姫 この写真集はモノクロームで波や水の軌跡を追いかけた写真、計21点により形成されています。撮影場所は私が育った北陸日本海沿岸です。 私は写真を知り、まだ4年にもなりません。この写真が展覧会とともに私個人の言葉となり世に出るのはこの機会が初めてです。 写真を撮りはじめて、2年が過ぎようとしていたとき、写真を通して見つめることがどういうことなのか、写真って一体何かなという素朴で大きな疑問にぶつかりました。 それまではただ写真と仲良くなるのに夢中で、写真を撮る行為について考える時間も頭もなかった。 この素朴な疑問に対して立ち向かった、今現在の結論がこの写真です。 この写真は私のセルフヌードに匹敵すると私は考えています。 しかし、何故私はセルフヌードという形式をとらなかったのか、何故、祖国韓国や家族、身の周りの出来事に眼を向けることがなかったか、何故。それは私の生い立ちなどにも附随しています。 私は在日韓国人です。しかし自身の存在は韓国人でありながら、韓国人ではないという曖昧な疑問。そして家族。私は15才から家族と離れたので、家族という存在や響きにはとても馴染めず、家族を撮る行為は私にとって日常からさらに遠のく行為でした。 私の周りには確固たるアイデンティティが存在していないと感じたとき、何よりも強大で大きなものに自然と足が向いたのです。 とても大きいことが私にはっきりと「そうだ、何てことはない」と教えてくれました。自分自身が粒子になるような感覚でした。そして、写真を撮る行為とは共生することなのかもしれないとふと感じた。不思議なもので、日本海は私の生まれた場所に面していると同時にまだ見ぬ韓国の地にも面しているのですね。後から気がつきました。 "sex"というのは、物の性質という意味合いもあります。 私は自身の性、男が男であるということ、女が女であること、人は人なんだということを想い、この作品を世に出します。 『SEX』に寄せられた言葉たち 堕ちていく――写真という絶対表面、その底なしの淵へ 竹内万里子(批評家) 徐美姫の撮ったモノクロの海は、わたしのなかにある海である。それは少しも穏やかなものでなく、暴力的で正視できない。それでも見ずにはいられなくて、見ているうちに泣いてしまった。生きる者ならきっと知っている。どうしたって手懐けられない、貪欲に沸き続ける泡のような哀しみ。 小池昌代(詩人) 写真の向こうから、音が聞こえてくる。ときに激しく、ときにせつなく、ときにひそやかに、生命力をみなぎらせて。それはまるで私たちの息づかいのようだ。 これらの写真はどうしようもなく私を不安にし、 同時に安堵させもする。きっと、ひとりであることを思い出させ、だからこそだれかを求める気持ちを思い出させるからだろう。 角田光代(小説家) この写真集を見て、感じて想う何かが、ひとを少女にさせる。 本を閉じ灯りを消して、布団の中で夢想するのは、 切なかったり悲しかったりしない、あたたかなセックスだ。 そんな美しいことが起こるかもしれない写真集だと、ぼくは思った。 豊田道倫(音楽家) 深閑とした中に、音の気配がある。寄せる波ではなく、引く波の音だ。砂粒が、小石が、水泡に揉まれ、声をあげて引きずられていく。 私は波の行方に目を凝らす。その遥か先にある多くの生命を意識する。彼らの歩んだ長大な道程に打ちのめされる。わかっていることなんかごくわずかだ、と口中で呟く。 spotting/木内昇 徐美姫 | Miki Jou 1974年 福井県生まれ。国籍 韓国。 2002年 写真を始める。 2006年 写真集『SEX』(赤々舎)発売 (6月3日)、「4人展」(SHUGOARTS)同作品出展。 書籍、雑誌などの媒体でも活動する。 現在、東京在住。

セール中のアイテム