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中動態の世界─意志と責任の考古学─/國分功一郎

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990円

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4月18日(金)晴れ ⁡ 今日も13時から18時まで店開店ですので、よかったら。『暇と退屈の倫理学』で知っている方も多いかなと思いますが、哲学者の國分功一郎さんの本『中動態の世界 意志と責任の考古学』の文庫版のものを初めて入荷しました。もともとは、医学書院さんの「シリーズ ケアをひらく」から出ていたもので、最近新潮文庫に入りまして、お求めやすくなりました。『暇と退屈の倫理学』も久々に入荷しようかと思ったのですが、注文のタイミングで版元品切でした。また入荷します。 ⁡ 『中動態の世界』は僕は医学書院のもので半分くらいは読んだかなと思います。いわゆる能動態でも受動態でもない中動態という今は廃れた言葉を巡り掘り起こしながら、國分さんらしい精密な読解分析研究と思考が緻密に言明されている好著です。専門的な硬質さもあるので、その緻密さにやや疲れる方もいるかもしれませんが、そのくらい正確に記述説明をしようとされる誠実さを、僕は買います。素晴らしい1冊。 ⁡ 芸術家の方のなかで芸術制作の実際を分析するひとつの概念ツールとしてこの中動態というものを活用するが、この本が出て以来ちらほらと現われているなあとみています。主体と呼ばれるものが自らの意志においてなにかを能動的に行うのでなく、ある意味ではその制作という力動性に作者は巻き込まれその渦中にいる、その過程それ自体に主体が含み込まれている。制作というものの自律性を知る芸術実践者ならばすぐにぴんとくるだろう話を説明するにあたり、この古き時代に生きていた中動態というものは便利だと感じます。ちなみに僕はこの休日中は、会社員トラウマを積極的に自己裂開し心的手術を描画行為において行い続けて疲労中なんですが、こうした書き方をするとあたかも私という主体がその手術を自己の意志決定に基づき実践した、その主体的意志決定においての責任は私にあるとする、いわゆるたとえば法学的な責任主体論理にそれは回収され理解されるわけですが、いうなれば僕もこの数日間はそんな主体的意志決定以前にトラウマとそこからの回帰の流動の磁場に飲み込まれつつ、けれども単に飲み込まれるだけではなく、その傷をさらに深掘りしながら患部を魂のメスで切り開きそのなかの膿を流し出し、それを縫い合わせるというような作業をしてきたのです。結果として3日間で十数枚の絵を描きながら治療行為に巻き込まれてきたのですが、傷の深みと僕の精神力との兼ね合いから、2.8割まで進んでいた治療が6.4割まで進みそこでひとまずストップ、時間切れとなりました。時間切れというのはその傷の心的手術をしていると僕は店の仕事ができなくなるほど朦朧としたり痛みに苦しむので、ひとまず昨晩でその手術を終えて、ひとまずのところで開いた患部を今縫い合わせながら、これを書いています。深々とえぐった患部がなかなか縫い合わせきらないのですが、とりあえずは文章を書けるくらいには日常意識に帰ってきました。まだだいぶん全身心痛むのですが、とりあえず金曜日なので仕事だ。日常意識に帰ります。 ⁡ 無意識の動性というのは無意識だから意識上での私以前に様々に思考は動く。自己裂開手術も実際のところどのようにみずからの心の傷を治療するのかその全貌の詳細に至るまでは僕という主体には理解ができない。理解ができないけれど心に聞くとその治療行為を通じて早めにその傷が治るように営まれ、僕はその過程のなかに巻き込まれ含み込まれてそれをやるために絵を描かされる。痛みもその意味では必要な痛みであることがわかる。不思議なものである。主体などというものは明滅する点描のようなものだ。意志や意識以前に心はなにかに取り組む。 ⁡ ✳︎ ⁡ 中動態の世界─意志と責任の考古学─ 國分功一郎/著 990円税込 ⁡ 『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、文庫最新刊! 本当の自由を求める新たな時代の哲学書。 ⁡ 誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探求すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した“中動態”に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。時代を画する責任論を新たに収録。 ⁡ ✳︎ ⁡ 店頭、webで。 ⁡ 今日もよろしくどうぞです。 ⁡ 百瀬雄太

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